一本杉の歴史を知る

> 一本杉通りができたのはいつごろ?

一本杉町という地名は、元和2年(1616)の所之口町絵図に初めて登場し、当時すでに地域としての形成が見られます。
前田利家が能登一国を受領(天正9年・1581)し、1582年以降に町割りや築城が進む中で、35年ほどの時期のうちのいずれかで一本杉通りが整備されたと考えられます。

> 一本杉通りの登録有形文化財

勝本邸(明治30年頃・木造二階建/腕木構造)は、明治末の大火前の町家の風情を残す建物です。
北島屋茶店(明治37年頃・木造二階建/腕木構造)は大火を免れた希少な伝統町家で、旧上野啓文堂(昭和7年頃・看板建築)、鳥居醤油店(明治41年再建)、高澤ろうそく店(明治43年・土蔵造)、赤倉邸(明治39年頃・登梁構造)など、各建造物が七尾の歴史と伝統を今に伝えています。

> 名刹 木越山・光徳寺(浄土真宗本願寺派)

七尾市馬出町にある光徳寺は、正門が一本杉通りに面しているためアクセスもしやすい名刹です。
開基は1302年(乾元元年)に遡ると伝えられ、創建時の法宝物(親鸞聖人御自筆の六字名号や阿弥陀如来像など)や伝統行事が今も伝承されています。
寺伝や史料に基づき、加賀一向一揆との戦いの記録も残るなど、歴史的・宗教的価値の高い寺院です。

> 国指定伝統工芸・七尾仏壇

七尾仏壇は、17世紀後半から約400年にわたって伝えられてきた伝統工芸品です。
特徴は、堅牢さ、華麗さ、荘厳さの3点で、江戸時代の悪路を耐えるために堅牢に造られました。
木地師、塗師、彫刻師、蒔絵師、金工師といった五職の分業による手作業で作られるため、金箔や青貝を用いた華やかな装飾と、独自の組み立て技法が光ります。

> 江戸時代能登有数の文化人を多く輩出した豪商・塩屋家跡

江戸時代、七尾において塩屋一族は、御用商人として煎海鼠(いりこ)など特産品の取引を担い、また町年寄など地域の重職に就くなど商業と文化面の両方で活躍しました。
豪商として知られるこの一族は、俳人や学芸面の人物も輩出し、地域の文化史に大きな影響を与えました。

> 書家&画家&文筆家・横川巴人 (1886~1969)

一本杉町で生まれた横川巴人は、書家、画家、文筆家として幅広い分野で活躍しました。
戦前・戦後の七尾における文化運動の中核として、その作品や評論活動、また年譜に見るような生涯の記録が、地元の文化や歴史に多大な影響を与えています。

> 明治初期の七尾を代表する商人・津田嘉一郎

北前船が活躍していた時代、津田嘉一郎は七尾港を拠点に商売で頭角を現しました。
彼は銀行経営や火力発電事業(七尾電気株式会社設立)など、明治初期の革新的な事業展開を通じ、七尾の経済発展と近代化に大きく寄与しました。

> 直木賞作家・杉森久英(1912~97)

七尾出身の杉森久英は、直木賞候補など数々の文芸賞を受賞し、執筆活動を通して大衆と知識層双方に支持されました。
彼の作品は風刺や社会批評が色濃く、地元七尾の歴史や文化への愛着も感じられる内容となっており、その生涯は後世に語り継がれています。

> 一本杉通りゆかりの芸術家・モダンアートの旗手 勝本冨士雄(1926~1984)

戦後、日本のモダンアート界で活躍した勝本冨士雄は、抽象画や幾何学的な表現で知られています。
彼は、ガラスモザイクによる壁画なども手がけ、七尾市内の公共施設などにその作品が現存しており、地域の芸術文化の発展に大きく寄与しました。

> 昔あった七尾の4つの漢学塾(うち2つは一本杉通り)

江戸時代から明治にかけ、七尾では漢学塾が複数存在していました。
岩城穆斉の臻学舎、横川長洲の保合堂、さらに安田元蔵(竹荘)や中村豫(立軒)による家塾など、知識人育成と地域文化の継承を担う教育機関として、当時の七尾は向学の町として栄えました。

青柏祭にまつわる伝説

 昔七尾の山王神社へ毎年一人の美しい娘を人身御供として差し出す習わしがあった。ある年のこと、白羽の矢の立った家の主が何とかして娘の命を助ける方法がないものかと毎日思案していたが、良い方法は思い浮かばず、祭りの日は刻々とせまるばかりであった。

 思案尽きた父親は、深夜、草木も眠る丑三つ刻、社殿に忍び込んでみたところ、何やらつぶやく声が聞こえる。「娘を喰う祭りの日が近づいたが、越後の'しゅけん'は俺がここに潜んでいることを知るまい。」と言っていた。

 そこで、娘の父親は、'しゅけん'という名を頼りに急いで越後へ言ってみた。色々訪ねあるいて、やっと出会えたが、その'しゅけん'とは全身真っ白な毛で覆われた狼であった。その狼の話によると、昔3匹の猿(見猿、聞か猿、言わ猿)が他国(よそ)から越後のその地にやって来て人々に害を与えたため、その'しゅけん'が2匹まで噛み殺した。だが他の一匹は逃がしてしまい、行方はわからなかった。その1匹が能登に隠れていたということだったのだ。

 それでは、退治してやろうと、娘の父親を背中に乗せ、海の上を鳥のように飛んで七尾へ到着、祭の日、娘の身代わりになって唐櫃(とうひつ)に入り神前に供えられた。
 
 その夜は暴風雨で荒れ、そして両者の格闘する物凄い物音が七尾の町を騒がした。翌朝、人々が行ってみると、大きな猿が朱に染まってうち倒れ、'しゅけん'も、また冷たい骸(むくろ)となっていた。人々は、'しゅけん'を手厚く葬り、また、猿のたたりを恐れて、人身御供の代わりに3台の山車を奉納することになった、ということだ。

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